私はかれこれ2年間、義母と同居しています。
妻はフルタイム勤務、実働は9時〜19時のブラック企業なので、平日は私が2歳息子の朝食と保育園の送り迎え、風呂と寝かしつけをしています。
休日も朝7時に息子と散歩にいき、1時間ほど運動してからお絵描きやおままごとといった遊びに一日中付き合っています。
わかりやすく言うと、ママ業を年中やっているということです。
代わりに妻がパパ業をやってくれています。
共働きなのに収入は芳しくなく、常に生活が苦しいのでインターネット上でできる副業を始めました。
副業での出会いの中で「家事も育児もがんばっている人がたくさんいる」ことを知りました。
私も例に漏れず死に物狂いで”がんばって”いたので、自分を楽にしたいと思い、すべての親が頑張らなくていい方法を考えました。それをここで紹介します。
家事も育児もがんばらなくていい理由
日本人の親(特に母親)は、昔から家の中のことを任され、家事も育児も完璧にやって当たり前とされてきました。
実際、私たちの親世代はそうやってきた人が大半で、洗濯や食事もすべて出てくることが当たり前で、お弁当も手作り、ご近所付き合いもこなしていた親像を思い出す人も少なくないはずです。
ところが、親が頑張ることが必ずしも正解ではないことが最近少しずつ明らかになってきました。
そこで一旦日本を離れ、海外に目を向けてみましょう。
アメリカの親は義務感が少ない
アメリカ人の親のエピソードが象徴的で面白いので紹介します。
アメリカでも親が1人で外出するとき、周りの人は「今日は子どもはどうしたの?」と日本と同じように聞きます。
アメリカ人の親の答えはこうです。
「誰かがみてるだろうから大丈夫!家に誰かいるんだから。」
私はこの話を知り、はっとさせられました。
日本人の親は「自分がお世話しなくてはならない」とずっと緊張しています。
朝起きた瞬間から
子どもがもう起きてくるかもしれない…
保育園や学校に行くのを嫌がるかもしれない…
迎えに行くのは遅刻してはいけない…
寝るのは遅くなってはいけない…
いろんな義務感が一日中つきまとっていて、落ち着く暇がないのです。
でも本当にそれは義務なのでしょうか?
親には「教育を受けさせる義務」はあるものの、お世話をする義務はありません。
健やかに育っていれば、友人や祖父母が世話したっていいのです。
シッターやヘルパーももちろんいいわけです。
誰かが家にいれば自由に外出するのだって全く負い目に感じることではないのです。
ユダヤの親はダメと言わない
ユダヤ人の親は基本的に子どもにルールを教えることはしないそうです。
ユダヤ人なんて関係ない…
そう思うかもしれません。
ユダヤ人は全世界の人口の0.25%しか存在しないにも関わらず、ノーベル賞受賞者の約20%を占めています。
マークザッカーバーグやジェフべゾス、アインシュタインなどの時代を動かす有名人も大富豪もみなユダヤ人です。
そんなユダヤ人の共通点がユダヤの教えにあります。
子どもの頃から母親が子どもに問いかける言葉に秘密がありました。
こんな時、あなたならどう行動する?
どう思う?
それはどうして?
常に子どもに考えさせることで、アイデアや工夫を導き出せるようにしているのです。
日本では、
これは悪いこと、ちゃんと謝りなさい。
ちゃんと勉強しなさい、残さず食べなさい。
というように、答えやルールを教えてしまうので、子どもは自分で考えることを忘れてしまいます。
しかもその結果、親は「自分のしつけが…」と自責の念に苛まれてしまいます。
ルールがあると苦しくなる
大好きな家族と、居心地のいい家で過ごしたい。
想いはみんな一緒なのに苦しくなることがあります。
それはルールのせいです。
ルールがあるとしばしばこんな事が起きます。
「パパがゴミ捨て当番なのに出してくれなかった」
「門限は19時なのに子どもがそれまでに帰ってこなくてそわそわ」
「ママは体調が悪いけど食事はママの当番だし…」
ルールがあることで、良いことは一つもなく、悪いことだけが増えます。そう断言できます。
なぜなら、こういうことです。
ママが家事も育児もやるのは大変だからパパにも分担してもらおう、と考えたとします。
すると、ママは自分が作ったルールを予期せぬ残業で守ってくれないパパにイライラします。
パパはパパで、疲れて帰って来たら「おかえり」と出迎える前に文句を言われ、二人の関係はギスギスします。
ルールは味方に対して使うものではなく、敵に対して使用する道具なのです。
家族はそこにいるだけで価値がある
家族とは、何かをしてくれたから…という行動ではなく、ただそこに存在しているだけで意味のある存在です。
なぜなら家族の一人一人に個性があり、能力もまたまちまちだからです。
例えばこんな話があります。
4人家族、夫婦に男の子が2人住んでいます。
長男は脳に重たい障がいを持っており、身の回りのことを自分ですることはできません。
次男は活発で少しやんちゃですが、兄を気づかって生活のサポートをすることもあります。
長男はたしかに一人では歌を歌うことくらいしかできませんが、それでもこの家族には必要な存在です。
次男も遊びまわっていたずらばかりしていますが、やはり一家には大切な存在です。
それは家族が存在自体に意味がある”かけがえのないもの”だからです。
だから何もできなくても自分を責める必要もないし、何もしてくれないからと責める必要もないのです。
ただいてくれるだけで励みになったり、嬉しい気持ちになることは、誰でも経験があるはずです。
私も家事や育児をきっちりやりたい方でしたが、上記のように考えることで自分自身が楽になり、
家族に優しく接せれるようになり、毎日が楽しくなりました。
少しでもやれることから実践してみたり、考え方や見方を変えてみると、発見があるかもしれません。
この記事が少しだけ肩の力を抜いて生きるヒントになれば嬉しいです。